最新更新日:2024/09/26 | |
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【校長日記】 江南・熊野社の秘密は?中奈良にある熊野社(写真上)には、大きな特徴が残っているのです。 それは、周囲に鈴木姓が集中しているということです。(写真下) 県内のいくつかの熊野社・熊野神社を調べたのですが、このような特徴は残ってはいませんでした。 全てを調べていけば、他にもきっとあると思いますが、中奈良地区は、本来の熊野社と鈴木姓との関係を色濃く残している地域なのです。 これは由緒がある地区ということです。 実は、埼玉県熊谷市にも中奈良という地名があります。 何と、そこにも熊野社(奈良神社)があります。 奈良時代に奈良別命が当地を開拓して建立したといい、中奈良という地名と熊野社の関係は、江南市と共通点が見つかるかもしれません。 どなたか、ご存じの方、教えてください。 【校長日記】今朝の朝礼ライオンズクラブ平和ポスターコンクール、読書感想文コンクールの表彰伝達を行いました。 その後、絵を見てもらいました。 花を中心とした、明るく、やさしい色調の絵を見た後、その作者である南 正文(みなみ まさのり)さんを紹介しました。 「ごらんのように、南さんには両腕がありません。口で描いたのです。」というと、子どもたちから「エッ!」という声があがりました。 (ほてっこは、朝礼でつぶやいてくれるので、とてもやりがいがあります。) 南さんは、1951年9月大阪府で生まれました。 小学校3年生の春休みに製材業を営む父を手伝い、機械のベルトに巻き込まれて両腕を失いました。 2年遅れて養護学校へ4年生から入学し、そこで口で本をめくり、足指でノートをとることなどを学びます。そこでの級友の姿に、励まされたと言ってみえました。 14歳の時、口筆画家大石順教尼に師事、口での描画と生き方の修行を始めます。ここでの学びが、南さんの人生を創っていきます。 師事後1年で口筆画“若武者”が堺市展に初入選。その後も公募展で入選、受賞を繰り返していき、日本画家としての名声を高めていきます。 また、ダイビングなどいろいろなことにも挑戦し、海外や国内で講演活動、自費で国内の少年院を慰問、ネパールに学校を贈る活動にも参加していました。 見る人の心を打つ美しい日本画を制作し続け、2012年12月に亡くなりました。 最後に、南さんがよく言っていた、大石順教尼の教えを子どもたちに紹介しました。 「できないとしないは違うんだよ」 「禍福一如:心の持ち方ひとつで幸せになったり、不幸になったりするんだよ」 あきらめないでチャレンジする子、そして、ポジティブに考えられる子になってほしいという願いを込めて話を終えました。 終わった後、ある6年生の男子児童が、「校長先生、今日の朝礼の話、とても心に残りました。」とわざわざ教えに来てくれました。 とてもうれしい言葉です。 南 正文 さんについてはこのページをご覧ください。 http://minami-sakura.jp/ 今日まで、中日ビルにて、個展が開かれています。 【校長日記】 江南の熊野社の秘密は?近隣の熊野社・熊野神社を調べてみましたが、ほとんど見あたりません。 その特徴とは何でしょう? それは、鈴木姓 です。 鈴木という姓はいろいろな起源がありますが、最も有力なのは、紀伊国・熊野大社の神官としての系列です。 熊野社・熊野神社が、海を渡り、今の愛知や静岡、関東に上陸し、そこから東北、北陸に分布しました。 それが、上の図です。東日本に多いことが分かります。 熊野社・熊野神社が広がることにより、鈴木姓も広がっていったのです。 中の図は、全国の苗字ベスト10と、愛知県のベスト10です。 また、愛知率とは、その苗字の人が、愛知県に何パーセント住んでいるかということです。 愛知県の人口は、日本全国の5.5パーセントの人が住んでいるので、それより多いと愛知に多い苗字ということがわかります。 水野、加藤、伊藤は、特に愛知県に多いと言うことがわかります。 鈴木は、静岡や関東の都県と同様、第1位です。 下の図は、各都道府県で、「鈴木」姓が何番目に多いかを示したものです。 1位から10位を赤。11位から20位を水色で着色してみました。 いかがでしょう? 熊野社・熊野神社の分布と似ていませんか? 鈴木姓は、東日本に多いことが分かりますね。 それでは、江南・中奈良の熊野社の秘密とは? 次回にお知らせします! 【校長日記】 南 正文 個展に行ってきました30日まで開かれています。 南さんのプロフィルです。 1951年9月 大阪府堺市に生まれる 1951年 小学校3年生の春休みの最後の日、父が経営する木工所を手伝っていて、機械のベルトに巻き込まれて両腕をもぎとられる事故にあう。 1953年 事故のため2年遅れて、養護学校へ4年生から入学。 そこで口で本をめくり、足指でノートをとり、足と肩で箒を支えて掃除することなど、勉学と生活訓練に励む。 1965年 「日本のヘレン・ケラー」と呼ばれた大石順教尼の最後の弟子となり、口に筆をくわえ、日本画の勉強に取り組む。 1967年 堺市展に初出品し、入選。以後、毎年入選する。 1970年 堺市展で奨励賞を受賞。以降、数回受賞。 1975年 世界身体障害者芸術家協会(現在は、口と足で描く芸術家協会)会員になる。以降、各種の展覧会、グループ展に出品する。 1999年 財団法人ソロプチミスト日本財団より社会貢献賞を受賞。 その他、ネパールへ学校を贈る運動に尽力し、3校を設立。海外や国内での公園、刑務所や少年院を慰問するなどの活動もおこなっている。 その後も、いろいろな活動をされ、2012年12月に亡くなったプロの画家です。 私も何度もお会いしましたが、いつも明るく前向きで、尊敬していました。 絵や画像を見て、大きな勇気をもらいました。 ホームページ(写真下)もご覧ください。 http://minami-sakura.jp/ 南さんのドキュメンタリー映画「天から見れば」公式ページ http://tenkaramireba.com/ 【校長日記】 えほんのもりしばらくイタリアに住んでいましたが、日本に帰ってみえました。 日本福祉大学の講師時代には、私も2回ほど、学生さんに模擬授業を依頼されました。 その伊藤先生が運営しているのが「えほんのもり」。 もともと伊藤家は、私が知る限り、蔵書数の多さでは一番のお宅です。 その質も高く、丸山真男などの日本思想史系も数多くありました。 その中で、子ども向けの本を集めたのが、この「えほんのもり」です。 その数、1万5千冊。 (これは、伊藤家の本の中の一部です。) 絵本に興味のある方は、ぜひ訪問してみてください。 【校長日記】 今朝のマラソンパトロール走って、うっすらと汗をかくぐらいが一番よいのです。 今朝は熊野社へ行ってきました。 中奈良の熊野社は、近隣の熊野社・熊野神社と比べても、本来の熊野社がもつ特徴を色濃く残しています。 熊野大社ゆかりの特徴です。 それは何でしょうか? ぜひお考えください。 (熊野にお住まいの方はわかりますよね・・・) 正解は明日紹介します。 【校長日記】生駒利豊が東軍、平三郎が西軍になぜ分かれた?お題は、関ヶ原の戦いでは、生駒利豊が東軍、甥の平三郎が西軍に分かれてた戦いました。 なぜ、親族の中で敵・味方に分かれて分かれて戦ったのでしょうか? 関ヶ原の戦いは、まさに天下分け目の戦いでした。 情報戦では東軍有利、関ヶ原の布陣では西軍有利と今だから言えますが、当時の人にはどちらに付いてよいのかわかりません。 「勝ち馬に乗る」という諺があります。 「有利な方につく。勝った方に味方して便乗する。」と解説がありますが、当時はもっと切実です。 負けた側に付くと、お家は取りつぶされ、主だったものは女・子どもを含めて殺されるのです。 それでどうしたのか? 両方に付くのです。 同じく江南生まれの蜂須賀家政はどうしたのでしょうか? 彼は、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に入ります。 そして、子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。 どちらが勝っても、蜂須賀家は残るようにしたのです。 讃岐生駒家の生駒親正はどうしたのでしょうか? 讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが、自らは病気を装い本戦には参加しません。 さらに子の生駒一正は東軍につかせます。 これも、どちらが勝っても生駒家は残るようにしたのです。 結果はもちろん東軍の勝利。 蜂須賀家も生駒家は安堵されます。 くり返しますが、関ヶ原の戦いは、文字通り、天下を分けた戦いだったのです。 写真は、家康が最初に陣を置いた桃配り山から見た、三成のいた笹尾山です。よく見えましたが、小早川秀秋のいる松尾山は、高木に遮られ視界に入りません。 桃配り山は、指揮のためのベストポジションとは言い難いかもしれません。 家康は、指揮よりも、自分も動ける場所を考えたのかもしれませんね。 アソシア志友館 おもしろ学校蒲郡市立大塚中学校PTA活動報告中澤沙耶さんがしょうかいされました中澤さんは、宮田中学校出身で、その当時から、アマ女流棋士の全国大会で優勝した実力の持ち主です。 現在は大学1年生。 女流棋士界の頂点を目指して、実力を蓄えているところです。 名前を覚えておいて下さいね。 江南市PTA連合会研修視察三河地区の優秀PTAである蒲郡市立大塚中学校のPTA活動を視察します。 また、報告します。 【校長日記】 今朝の朝礼−だから悪い−はじめに表彰伝達をしました。 赤い羽根協賛児童生徒作品コンクール ポスター・書道の部、そして 江南市リサイクル作品コンクール、江南市環境ポスター作品コンクールに入賞した人に、一人一人賞状を伝達しました。 また、愛知県小学生陸上競技選手権大会の入賞者を拍手で讃えました。 次に、ステージの照明が替わったこと、昨日の環境フェスタの様子を紹介しました。 今日のメインは、「校内読書週間」にちなんで、読み聞かせを行いました。 オセーエワ 作、西郷 竹彦 訳 だから悪い 一ぴきの犬が,体をまえにかがめて,はげしくほえたてています。そのすぐはなさきに,かきねにぴたりと体をよせて,一ぴきの小ねこが,毛をさかだててふるえています。 かーっと口をあけ,ニャーオ,ニャーオとないています。すぐそばに,ふたりの男の子がたって,どうなることかとみていました。 まどから,それをのぞいていた女の人が,とぶようにして,かいだんからかけおりてきました。女の人は,犬をおっぱらうと,男の子たちをしかりつけました。 「あんたたち,はずかしくないの!」 「どうしてはずかしいの?ぼくたち,何もしていないよ。」 男の子たちは,びっくりしたように,いいました。 「だから,わるいのですよ!」 女の人は,まっかにおこっていいました。 この後、次のようにいいました。 「何もしないことがなぜ悪いことなのか、周囲の人と話し合ってみましょう。」 活発な話し合いが行われていました。 この場合、「猫を助けてあげる」、できなければ「大人を呼びに行く」 がより良い行動でしょう。何もしなかったから、「だから悪い」のです。 これは他の例でも同じです。 例えば、誰かがだれかをいじめているところを見たら、何もしないことは、いじめていることとたいして変わりません。だから悪いのです。 いじめをやめさせる行動に出るか、できなければ大人に相談する。それが正しい行動です。 子どもたちの意識に残ってくれたらと思います。 環境フェスタ等 盛り上がっていますますます来場者が増えて、盛り上がってきました。 環境フェスタ等開催中!!環境フェスタ等開催式太陽が顔を出し、祭りムードを盛り上げてくれます。 環境ポスターなどの表彰式のリハーサル大ホールでは、環境ポスターなどの表彰式のリハーサルを行っています。 【校長日記】 第6回教師力アップセミナー講師は中部大学教授、小笠原 豊 先生。 テーマは、「子どもが夢中になる理科の授業」 おもしろかった! みなさん、例えば、次の仕組み分かりますか? <font color="yellow">階段の照明のスイッチを、1階で入れて、2階で切る。 2階でまた入れて、今度は2階で切る。電気の回路はどうなっているの?/font> 月までの距離は、レザー光線を月に向けて反射して返ってくるまでの時間を計測して計ります。 月にどんな鏡を置くと、反射して戻ってくるのか? その他、よくある課題でも、その前の仕掛けによって、「なぜ?どうして?」「知りたい!」という気持ちにさせてくれました。 そして何より、話術がうまい! 私は、吉本の芸人さんよりも笑えました。 遊び心がたっぷりで、とても勉強になりました。 【校長日記】 龍神社 雨壺池今日紹介するのが、龍神社、そしてその前にある雨壺池。 龍神社は久昌寺の墓地から見て西側に見えます。 吉乃御殿が今の社務所の辺りにあり、織田信雄や徳姫はここで生まれたといわれています。 龍神社は生駒氏の氏神でもあります。 現存する最古の棟札によれば元和8年(1622)岡崎城主徳川信康の室、見星院並びに生駒因幡守利豊の再建となっているそうです。 龍神社は八大龍王をまつっています。このあたりの地名を「八竜」というのはそのためです。 八大龍王は、古代インドの8つの首をもつ蛇「ナーガ」が、中国を経て日本に形を変えて入ってきたもので、雨を降らす神様でもあります。 雨壷池(写真中)については、下の看板をお読みください。 この辺りは一帯は低地帯で、昭和の頃には大雨で水田がよく水没しました。 最近は滅多にないそうですが。 曽本町に「幼川添」という地名があります。 五条川のことを「幼川」とよんでいたのですね。 地名には何らかの意味があるのでね。 【校長日記】 生駒 平三郎ここには、「生駒平三郎の廟也」と書かれています。 「生駒平三郎」については、後日説明すると書いたので、ここで紹介します。 生駒氏といえば、信長の室、吉乃ですね。 その吉乃の兄が、四代 生駒家長です。 小折の宝頂山墓地の五輪塔が家長の墓です。 その子が、生駒平蔵、そして四男(史料によっては五男)が利豊です。 宝頂山墓地の家型墓地が利豊の墓です。 「生駒平三郎」は、平蔵の子です。家長の孫であり、利豊の甥にあたるのです。 平三郎は、織田信秀に仕え、小牧・長久手の戦いで活躍しています。 関ヶ原の戦いでは、叔父・利豊が東軍、平三郎が西軍と分かれて戦いました。 平三郎は、畔柳半助(史料によっては柳田半助)と槍で戦い、二人とも谷に落ち、半助に首を取られました。まだ、25才だったそうです。 壮烈な最期ですね。 西軍だったために、墓地もこのような質素なものになったのでしょう。 では、叔父・利豊が東軍、平三郎が西軍と分かれて戦ったのはなぜでしょうか? また、後日紹介します。 【校長日記】 今日の朝礼今日のプレゼンは、ペンキを塗り直して新装されたステージの背面に、直接映写して行いました。 また、正門、東門にペンキを塗り直してもらったことを紹介しました。 さらに、布袋おやじの会の人に寄贈していただいた、クラビノーバの台を紹介しました。 手作りで、移動や実際に使用する時にとても便利です。 次に、昨日まで開かれた江南市美術展小中学生の部、江南市農業まつりの様子を紹介しました。 よい作品をたくさん見ている人が、よい作品を作ることができるという話をしました。 今日のメンイは、再びトイレのスリッパの話です。 トイレのスリッパは、誰かが整頓したのです。 その思いは、次の人に気持ちよく使ってもらおうという思いやりの心の表れなのです。 次に使った人が、整頓して戻すということは、その気持ちを受け継いだことになるのです。 トイレのスリッパを整頓することは、思いやりのバトンを次の人につなぐことなのです。 さて、布袋小のトイレのスリッパはどうなるでしょうか・・・。 楽しみです。 |
江南市立布袋小学校
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