最新更新日:2024/09/24 | |
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東大寺にて東大寺にて大仏殿に向かいますあいさつ朝食タイム朝食タイム朝食タイム朝食タイム朝食タイム朝食が始まりました朝の集い起床すでにほとんどが起きており、片付けが終わっている部屋もありました。 【校長日記】奈良らしさ県庁は、ご覧の通り、しかの顔をモチーフにしています。 道路には、「しかに注意」の看板が見えます。 人間社会としかが共存しているのは、世界でも奈良市だけという話を聞いたことがあります。 確かに、道の脇に普通にいるので不思議です。 そして興福寺。 興福寺を見ると、日本人としての暗い歴史を思い出します。 未だに、その後始末として、再建工事が進められています。 暗い歴史とは? いつか、朝礼で、子どもたちに伝えようと思っています。 写真は朝、5時過ぎの様子です。 【校長日記】奈良マラソンここは、奈良マラソンの39kmを過ぎたあたり。 奈良マラソンは、鴻ノ池運動公園から天理までの往復42kmを走ります。 途中にある峠は、高低差80mを一気に駆け上がり駆け下りるというのが往復2回出てきます。 特に1回目の下りで脚に負荷がかかりすぎ、2回目の登りで脚が止まる場合が多いのです。 このあたりは最も苦しいときなのですが、沿道の応援が増え、緩い下りになり、「残り3km」の看板が見えると元気が復活するのです。 消灯しました修学旅行リアル中継1日目は、125枚の写真を紹介しましたが、今日はこれにて終了します。 また明日もよろしくお願いします。 部屋長会の伝達メモしなくても大丈夫? 部屋長会感想を書いていますファッションショー【校長日記】銀閣に銀箔を貼るつもりだったのか?私は、かつて、「応仁の乱で財政難になり、貼りたくても貼れなくなった」と習いました。 その他、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」という説もありました。 今日もバスガイドさんとその話になり、「校長先生はどう思いますか?」と尋ねられました。 私の考えは、義政は、はじめから銀箔を貼る意思はなかったと思っています。 その理由は、 義政は8歳で将軍職に選ばれ、元服を迎えた文安6年に第8代将軍になり若すぎた将軍でした。故に、いろいろな介入を招き、政治が乱れていやになり、政権から離れていき、わび・さびの文化に没入していきました。そのセンスは東求堂や残された茶器を見ても、渋さを好み、とても銀色を好むとは思えません。 また、10年前の調査で、創建当時から銀箔が貼られていなかったことは立証されています さらに、「義政が、銀が酸化して黒ずんだ色合いを求めた」という説も、他に類例がなく、無理があります。 そもそも、慈照寺観音殿が金閣と対比されて「銀閣」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことです。 以上の理由から、義政ははじめから銀箔を貼るとは考えていなかったと思います。 |
江南市立布袋小学校
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