最新更新日:2024/04/28 | |
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【校長日記】 韮山反射炉の謎そうしたら、かねてからの疑問とはどんな疑問ですか?と質問をいただきました。 良い質問です。さっそくお答えします。 その疑問とは、Q なぜこんな条件の悪いところに造ったの?という疑問です。 反射炉とは、簡単に言えば製鉄所の炉と同じです。 製鉄所は必ず海の近くにありますね。 なぜなら、原料となる鉄鉱石や石炭、また、製品も船の方が運びやすいからです。 伊豆半島は基本的に山です。 当時はトラックもありません。 なのに、なぜ、製鉄所みたいなものをこの韮山に造ったのでしょうか? これが行ってみてわかりました。 この反射炉を造ったのが、幕末の偉人の一人、 韮山代官 江川英龍。 英龍は、1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚え、海防政策の一つとして、大砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を訴えました。 そして、1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。 やはり、初めは海の近くの、伊豆下田に築造を開始しました。 当然、鉄の原料や製品の運搬に便利なためです。 しかし、翌1854年(安政元年)、下田に入港したアメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入しました。アメリカに情報が漏れたのです。 幕府は、アメリカに敵意のないことを示すために、建造を中止します。 それでは英龍は収まりません。 そこで、江川英龍の地元である伊豆韮山に、密かに建造場所を変更したのです。 1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)に完成した。 立地条件としては良くないのには、そんな理由があったのです。 ここで鋳造した大砲は、江戸湾のお台場に設置されました。 右下の写真の像が江川英龍です。 |
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