日中は汗をかくようになってきました。水分をこまめにとりながら、学習や運動にしっかりととりくみましょう。

【校長日記】 色丹島訪問記 −13−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告13回目です。

8月3日、7:30から色丹島・穴澗に上陸です。
桟橋は工事が行われていました。(写真上)

出迎えのロシア人のみなさんです。
民族衣装で出迎えてくれました。

パンをちぎって、塩をつけて食べるのがおもてなしを受ける側の流儀です。

一人ひとりと笑顔で挨拶をしながら握手をします。

「Здравствуйте!(ズドラーストヴィチェ)」  
 
ロシア語で「こんにちは」の意味です。

気持ちの良い歓迎を受けました。

【校長日記】 アメリカ合州国?

画像1 画像1
夏休み中は、社会科に関係のある雑学を紹介しています。

以前、布袋中学校時代に、生徒から次の質問をもらいました。

Q テストで「アメリカ合州国」と書いてバツになりました。United States of America の“state”は州なので、合州国でも正しいと思いますが・・・。

ドキッとしました。

これは鋭い質問です。英語の国名を根拠に質問されるとは思ってもいませんでした。

連邦制をとっているアメリカは、各州(state)の自治が大きく認められており、合州国でもイメージとしては理解できます。

しかし、「合衆」というのはもとは漢語で、「共和」つまり合議制を意味する言葉です。「協力し合う」という意味でもあります。

そのため、「アメリカ合衆国」とは「共和制度の国家アメリカ」「民主政治のアメリカ国」という意味で名づけられたのです。

白川静『字通』平凡社では、【合衆】衆人を結合する。

諸橋轍次『大漢和辭典』大修館書店でも、【合衆】衆人を寄せ集める。衆人を結合する。衆人を和合させる。
とあります。

歴史的には、1854年調印の日米和親条約で亜米利加合衆国 の名称が使用されました。
 
やはり、理由があるのですね。

それでは、州によって何が違う?
 
例えば、24州ではギャンブルは合法、26州では禁止されています。

税制も異なり、売上税(日本の消費税)も7%の州もあれば、制度がない州も。

たばこ税も、150%州もあれば、わずか1.4%の州までありばらばらです。

マリファナの使用でさえ、カリフォルニア州やアラスカ州では合法化されています。

アメリカの「州」は、独立国家なのです。

画像出典:blog.nihon-syakai.net

【校長日記】 色丹島訪問記 −12−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告12回目です。

写真上をご覧ください。

画像はここから引用しました。
  http://imagic.qee.jp/sima/hokkaido/sikotan.html
北側に、「穴澗」「斜古丹」の2つの赤いがあります。 
人が住む集落は、現在はここだけです。

穴澗湾 に「えとぴりか号」は停泊しています。

8月3日(土)5:00 朝食です。元色丹島の島民である中田さんよりレクチャーをいただきました。(写真中)
元学校の先生をしてみえた方で、さすがにおはなしが上手です。

東北部に朽ちた建物がみえました。(写真下)
そこで問題です。

Q 何に使われた建物でしょう?

実は、拿捕された日本漁船の乗組員を収容する施設だったのです。
かつての日ソ(日ロ)の関係を象徴しています。

10年ほど前からは使われていません。

いよいよ上陸します。

【校長日記】 色丹島訪問記 −11−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告11回目です。

8月2日20時より始まった船内研修会・外務省欧州局ロシア課課長補佐の杉浦氏の話を紹介しています。

あと2枚ご覧ください。

写真上は、今後の対露外交の基本方針です。
良好な関係を築くことが、互いの国益にかなうのです。
しかし、ロシアが欧米と対立している中で、日本だけが接近しすぎるのはどうかという考えもあるので難しいところです。

写真中は、注目の資料です。
北方四島の年齢構成で、働ける人口(労働人口)の割合が、本土や樺太より高いのです。
それは、給料が高いからでは?ということでした。
確かに、給料は大陸の2倍と聞いたことがあります。

なぜか?

そこにはロシアの施策があるのです。
あの北海道東方沖地震で、北方四島の人口がかなり減少しました。
そこで、給料を上げて移住者を増やし、島の人口増加につなげたいのです。
それにより、実効支配を印象づけたいのです。
ただし、リタイアすると、多くの人は本土に戻ってしまうので、働ける人口の割合が高いのです。

このあと、「北方領土に関する教育上の取り扱いについて」、文部科学省初等中等教育局長教育課程課課長補佐の千々岩氏より話がありました。(写真下)

学習指導要領のなかでは、北方領土について教えることになっているという話でした。

さすがに、あの揺れの中で、ご飯をおかわりをしただけのことはありました。

【校長日記】  生演奏を聴くということ

画像1 画像1 画像2 画像2
お知らせしたとおり、今日は金管クラブが保育園を訪問して演奏しました。

これは、布袋保育園の保護者のみなさんが企画・準備をしていただきました。
貴重な機会を与えていただき、感謝しています。

司会の方から「金管クラブは、校長先生が作られました。」と紹介していただいたように、このクラブは昭和60年に作ったので、今年でちょうど30歳。
三十路です。

当時は、毎朝、クラブ員だけ早朝に登校し、朝練習をしていました。
また、土曜日の午後、時には日曜日にも練習をしていました。
いまではそれもなく、少ない練習時間を活用して練習しています。

中学校の部活動と違い、小学生のクラブにとって、人前で演奏する機会は限られています。
演奏度胸は場数を踏まないとつきません。
今日は、小学生にとってもよい機会でした。

それ以上に、園児にとっては、見るもの・聴くもの初めての子も多いと思います。

たとえテレビや本で見たとしても、生で見て聴くのでは大違いです。

特に、金管楽器や打楽器など、これだけの近距離だとお腹に響きます。
そんな体験は、なかなかできません。

楽器の名前までは覚えられないかもしれませんが、聴いた記憶は体が覚えています。
これをきっかけに、音楽に興味を持ってくれれば、この上ない喜びです。

最後に、楽器に近寄ってみてくれました。
こういうのがうれしいです。

来年以降も続くといい行事です。

金管クラブの次回の演奏は、8月7日午後6時のサマーフェスタです。

よろしくお願いします。

【校長日記】 色丹島訪問記 −10−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告10回目です。

8月2日20時より、船内研修会が始まりました。
講師は、外務省欧州局ロシア課課長補佐の杉浦氏です。

今回の目的は交流です。交渉ではありません。
それでも、日本の主張、ロシアの主張、相手の立場を理解していないと、不用意な発言をしたり、相手を傷つけたりすることがあるかもしれません。
こうした学習は不可欠です。
写真上で、それぞれの主張を確認しました。

ポイントがあります。
ロシアは、歯舞・色丹は返すと言っていることです。

返すつもりの色丹と、返す気がない国後・択捉は、インフラ整備等、どう違うのでしょうか?
これが、私の個人的な大きな興味です。


写真中は、北方領土の歴史です。
明らかなのは、北方領土は、歴史上常に日本の領土だったということです。
地図中の赤い部分です。

ポツダム宣言に次のようにあります。

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

ここでしっかりと決定してくれれば、もめ事は起きなかったのです。
この宣言は、アメリカが決め、イギリスが少し修正をし、中国は了解したのみです。
ソ連は、後になって追認したのみです。


写真下は、ソ連が中立条約を一方的に破棄し、日本に攻撃してきた流れです。

元島民の人の話を聴く時に必要な知識です。

明日に続きます。

【校長日記】 色丹島訪問記 −9−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告9回目です。

国後島古釜布港でのチェックの後は、色丹島へ向かいました。

2日(金)15:10に国後島の古釜布湾を出発し、怒濤の荒波を越えて、19:30に色丹島の穴澗湾に着きました。
実に4時間20分かかっています。復路は2時間55分で到着していますので、いかに往路の海が荒れていたかがわかります。

と書くときれいに終わるのですが、実態は・・・・。黄色い文字は、その時の私のメモです。

それにしても、船の揺れはすさまじかった。
交流事業10回目の中村さんは「こんなことは初めてだ」と言うし、船長も、「このところでは最も大きいしけだ」と言う。

5時からの夕食を食べに来たのは、生徒2名、大人も自分を含めて数えるほどだ。それぞれ、数口しか箸をつけていない。
6時には下げられたが、残滓が膨大だろう。調理員さんに申し訳ない。

もちろん、みなさん、酔い止め薬を飲んでいる。
私は、薬を持ってこなかった。(後悔、いや開き直り)
その中で、文部科学省の千々岩さんはニコニコしながら完食でおかわりをしていた。食堂の人も「えらい」とほめていた。彼は一体何者か?

こんな状態の時は寝ているのが一番だ。色丹島穴澗湾に到着したのが7時過ぎ。外に出るとまったく明かりがない。町?の方に一部見えるが、そのほかは真っ暗。


湾内は、嘘のように穏やかでした。


このあと、色丹島で使用するルーブルに両替しました。
写真上で3千円分です。
1ルーブルはほぼ3円です。
 
20時より、船内研修会が始まりました。(写真中)
最初の講師は、外務省欧州局ロシア課課長補佐の杉浦氏です。今回の交流が、領土交渉の場でないことを強調されました。

写真下が、そこで使われたスライドの一部で、北方四島の概要です。
終戦当時の日本人の人口と今のロシア人の人口。
北方四島の大きさ、日本からの距離の学習から始まりました。

明日に続きます。

【校長日記】 色丹島訪問記 −8−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告8回目です。
色丹島へ行くために、国後島へ立ち寄ることをお知らせしました。

そこで、ロシアの係官の丁寧なチェックを受けることもお知らせしました。

実は、国後島で降りる人たちもいるのです。(写真上)
学術調査隊の人たちではないかと思います。
その人達は、「えとぴりか号」から、友好船に乗り移って、国後島へ行くのです。
写真中は、その人達の荷物を、みんなで下ろしているところです。

写真下は、ロシアの係官が、友好船からえとぴりか号へ乗り移るところです。
係官で、最も中心的な働きをしていたのが、右下の若い女性です。
いかにもロシア美人です。
上級官僚なのでしょうか・・・。
女性の社会進出は進んでいるようです。

【校長日記】 引用とは?

児童自由研究をするときに、引用をすることがあります。

私も、ブログやこのホームページでよく引用をしますが、、引用にはルールがあります。確認しておきましょう。

まず、引用の法的根拠から紹介します。

【 著作権法 第三十二条(引用) 】
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。


ここから、引用は著作者に断りなくやってもかまわないということが分かります。

ただし、「公正な慣行」に合致しないと著作権法違反となり、著作権の侵害となります。

それでは「公正な慣行」とは?調べてみました。

1 引用元の明示。すなわち出典を明らかにすること。これが一番大切です。
2 引用は原文のまま使用すること。
3 引用部分が従であり、自分の文章が主であること。
4 引用することが必要不可欠であること。


3や4はあいまいですが、1や2は明白です。
 
それでは、もし著作権を侵害したら?

刑事罰(懲役刑、罰金刑)となります。
ただし、著作権を故意に侵害した場合のみです。

また、著作権侵害罪は親告罪です。
侵害された本人や遺族などの権利者しか告訴することができません。他人は訴えることはできないのです。

というわけで、よく「無断引用禁止」などと書かれているのを見ますが、言葉の使い方が間違っています。

本来、引用は無断でするものですから、この場合は「無断転載禁止」とするべきでしょう。

そもそも、引用されるとは名誉なことなのです。

「一般的に論文の引用回数(citation)が1000回を超え、そのあとぱたりと引かれなくなったら(周知されたら)ノーベル賞といわれています。」
(出典 http://www.chem-station.com/blog/2009/09/2009.html

引用を正しく教え、引用されるような論文を書く人を育てたいものです。

【校長日記】 西尾張吹奏楽コンクール

画像1 画像1
画像2 画像2
2日間にわたって行われました、愛知県吹奏楽コンクール 西尾張支部大会 中学校 A編成の部が終了しました。

大会責任者として、肩の荷がおりました。

A編成は、39校が、課題曲と自由曲の2曲演奏します。

5人の審査員が、それぞれ5点満点で採点し、その合計点で競います。

今年は、例年以上にレベルが高く、去年までなら金賞という学校が銀賞に、銀賞という学校が銅賞になる学校もありました。

結果的に、平均4点以上、合計40点以上の11校が金賞。
平均3点以上、合計30点以上40点未満の21校が銀賞、
合計30点未満の7校が銅賞になりました。

布袋中学校は銀賞でした。

上位7校は、8月7,8日に豊田市民文化会館で行われる、愛知県吹奏楽コンクールに出演します。

出演する学校は、
佐織中学校、城東中学校、犬山中学校、犬山南部中学校、大治中学校、木曽川中学校、暁中学校です。

演奏後には、外で記念写真を撮影します。

みな、晴れ晴れとした表情です。

【校長日記】 色丹島訪問記 −7−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
平成25年度 北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の報告7回目です。

色丹島へ行くために、国後島 へ立ち寄ることを前回お知らせしました。

国後島は、戦前は日本の北洋への重要な中継地でした。
水産業、畜産業、鉱工業など、国後全体で7000人以上の日本人が暮らしていました。沖縄本島よりやや大きな島です。

この古釜布港は不凍港です。冬でも凍らない港という意味です。これは、後々、大きなポイントになります。

船の上からのパノラマ写真とズーム写真とを並べてみました。
赤い矢印が同じ所を表しています。

写真上の矢印付近で、低地と高台に分かれます。
1994年(平成6年)10月4日22時22分に北海道根室半島沖約200kmを起点に起こった北海道東方沖地震 の爪痕が、この後いろいろなところで登場します。

低い建物の多くは水産加工工場
地震で津波の被害に遭い、それまで低地にあった住居は高台へ移転したのです。
役所や学校など主要な建物は、高台の上にあります。

震災後のまち作りは、東北で津波被害に遭ったまちの参考になるかもしれません。

昨年も来た人に聞くと、埠頭、舗装道路、ターミナルビル、学校、教会が、この1年間の間に建てられたそうです。
ロシア政府のクリム計画により、国後には大規模なインフラ整備が行われているのです。

写真中の赤い建物が、新しくつくられた学校です。

写真下には、舗装道路が見えます。
白い建物がターミナルビル
ターミナルビルの前に、昨日紹介した友好船が停まっています。
おそらく、ターミナルビルの中に、係官がいるのでしょう。

そのターミナルビルの上やや左手に金色のドームが見えるのがロシア正教会です。
ターミナルの右側に埠頭が続きます。 

これが国後島の現実なのです。

【校長日記】 江戸時代の「石(こく)」の意味は?−8−

江戸時代の「石(こく)」シリーズ 最終回です。

「米」の量から始まったこのシリーズですが、いろいろな単位の基準になり、多くの尺度に使われていることがわかりました。

最後は、「家格」です。

【 家 格 】
大名家には家格があります。

石高、官位、徳川家との関係などを総合して決まります。
 
外様は、石高と家格が比例していたと言ってもよいでしょう。

石高の評価は、秀吉時代の「太閤検地」(写真)が基本となっています。

薩摩藩は、実際に米は30万石足らずしか獲れなかったのですが、太閤検地で60万石以上とされ、江戸幕府からは77万石と評価されてしまいます。

江戸幕府は、この石高で労役(御手伝普請)を割り当てるので、薩摩藩は大きな負担を強いられたわけです。
あの宝暦治水・千本松原を思い出しますね。

一方、他のほとんどの藩では、公の石高の評定(表高)よりも、実際の収穫高の方が何割も高いというのが普通でした。
秀吉の頃に比べて、米の生産性が高まったためです。

薩摩藩がなぜこれだけ高い評価を得たのか疑問ですが、黒糖など、米以外の収入もすでに織り込んでいたようです。

水戸藩も、薩摩藩同様、実高は表高を下回っていました。これは、徳川御三家の一つとして見栄を張ったためのようです。

ちなみに、尾張藩は表高55万石に対し実高は80万石超だったようです。
詳しくは、
http://homepage3.nifty.com/ksatake/index.htmlhttp://homepage3.nifty.com/ksatake/index.html  をご覧ください。

「石」とは、米の容積、その米を生産できる領地の広さであり、兵力・財力・家格を表す、広義の概念なのです。

「○○石」の意味がわかりましたか?

以上で、このマニアックなシリーズは終了です。

お読みいただき、ありがとうございました。

 太閤検地の写真出典は
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh35_bakuhan_mura_seikatsu/sh35_bakuhan_mura_seikatsu.htm
 あまりにも有名なので、もとは違うところですが・・・。

 ところで、どうやって面積を測っているのか、この図からわかりますか?
画像1 画像1

【校長日記】 色丹島訪問記 −6−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の一員として、色丹島へ訪問した報告の6回目です。
今日は、国後島の古釜布(ふるかまっぷ)湾での手続き。

色丹島へ行くのに、まず、国後島へ寄るのです。上陸はしません。

なぜわざわざ国後島へ行くの?

疑問ですよね。

これは、歯舞諸島や択捉島へ行く人も同じです。
必ず、国後島の古釜布湾に寄るのです。(上陸はしません。)

湾口では、スベトリャーク型警備艇(375t、船長49.5m)が停泊して、我々を見ていました。(写真中)

といっても、監視のために付いてきたわけではなく、初めから停泊しており、その横を通り過ぎていきました。
手を振ってくれたら、振り返してくれた人もいました。

しばらく待つと、日本が贈った船(友好船という名前です)で来たロシアの係官が8名ほど、えとぴりかに乗船してきました。(写真下)

それから1時間ほどの手続きを行いました。

会場の集会室はシャットアウト。持ち込む荷物などをチェックします。

私達は、名簿順に並ばされました。
事前に、ビザ申請に必要な写真と、同じサイズの写真を提出しています。

美人の係員が、色丹島で下船する全員の顔写真と書類を、一人一人本人と照合します。
パスポートが必要な海外旅行よりもはるかに丁寧に時間をかけます。

そうなんです。
国後島の古釜布湾で入域手続きを行うために立ち寄るのです。

これがビザなし交流の現実です。

【校長日記】 江戸時代の「石(こく)」の意味は?−7−

江戸時代の「石」について考えてきました。
「石」とは、米の容積であり、それだけの米の生産力を持つ領地の広さでしたね。
およその兵力もわかりました。

今日は、【 財 力 】です。

「石」は米の量なので、石高は財力も表します。

江戸中期には、米の仲介業者である札差が武士から買う米の値段は、1石1斗=1両でした。

前に1石=1両と書きましたが、この1斗分が手数料なのでしょうか。
(商人は、新田が開発され、米の収穫量が上がれば上がるほど儲かったことがわかります。)

たとえば1万石の領地から得られる年貢米を5000石とすると4500両。
今のお金に換算すると、1両=10万円として、4億5千万円です。

ここから諸経費を引いて、1%の動員兵力100人で割ると…。

苦しい生活であったことが予想されます。

ところで、紀伊国屋文左衛門が江戸城をも焼いた明暦の大火の時に、木曽の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしました。なんと1千億円です。
先ほどの計算式に当てはめると、222万石の大名に匹敵します。

下写真が明暦の大火(振袖火事)の焼失地です。これにより、江戸の町並みが変わりました。
 出典 http://imai-aud.co.jp/Bieyasu.htm 
これは、読み物としてもおもしろい内容です。
画像1 画像1

【校長日記】 江戸時代の「石(こく)」の意味は?−6−

ここまで、江戸時代の「石」について考えてきました。
「石」とは、米の容積であり、その米の生産力を持つ領地の広さでしたね。

まだあります。
その他の視点を考えてみましょう。

【 兵 力 】

 司馬遼太郎の『関ヶ原』だったかと思いますが、戦国時代の戦闘員の動員能力は、およそ「1万石につき250人」だったと書いてありました。

 19万石の石田三成は、250×19=4750。

 関ヶ原の戦いでの石田軍は約5000人と言われているので、なるほどという数式です。
(関ヶ原の戦いでの兵力は、実際にはもっと少なかったのではないかという説もあります。)

 しかし、平和な江戸時代になると減ります。

 加賀100万石の前田家で1万人といわれているので、戦国時代の半分以下に減ります。

 長州藩36万9000石が禁門の変で動員した3000人という数もわかります。 

 いずれにしろ、「石」高から、およその兵力が類推できるのです。
画像1 画像1

【校長日記】 色丹島訪問記 −5−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の一員として、色丹島へ訪問した報告の5回目です。

8月2日 9時20分に根室港を出発。

初めは快適でしたが、沖へ出ると外はこんな感じ(写真上)でした。

その日は、「やませ」が吹き、海は大荒れです。

「えとぴりか」は就航したばかりで、安定性は抜群といわれながら、周期の大きな揺れに悩まされます。
船員さんにも船酔いの人が出る始末。
メンバーは、ほとんどの人がダウンです。私も同じです。

その中で、文部科学省の千々岩さんだけが、昼食をおかわりしていました。鉄人かと思いました。


さて、北方領土は、日本から見たら自分の領土です。
しかし、訪問する時には、必ず通るポイントがあるのです。

それが、中間点 。(写真中)
N 43度28分 E 145度 46分

すなわち、ロシア側の主張する海の上の国境で、ロシア国境警備隊とロシア語で連絡を取るのです。
そこで、許可が出ると、ロシアの国旗を船に掲げるのです。
ここで許可を得ないで入り込むと、拿捕されるかもしれないのです。

日本固有の領土といいながら、さらにビザなし交流といいながら、なんたる矛盾。
しかし、受け止めるしかないのです。
ロシアの実効支配が続いているということを、身をもって感じました。

これは、もっと強く感じます。

次回に紹介します。

【校長日記】 江戸時代の「石(こく)」の意味は?−5−

これまでに、「石(こく)」が、米をもとにした、容積や重さ、面積、通貨の単位のもとになっていることが分かりました。

ここからが本論です。
これをふまえて、武士の給料 について考えてみましょう。

幕府に仕える旗本や御家人は、大きく2通りの給与制でした。

一つは、知行(ちぎょう)取りで「石」で表示されます。
もう一つは、蔵米(くらまい)取りで「俵」で表示されました。

知行取りは主として旗本に、蔵米取りは主として御家人に対する支給方法です。
知行地を与えられた旗本は領主であり、一国一城の主です。
しかし、蔵米を与えられた旗本や御家人はサラリーマンです。知行取りとは家格は大きく違います。

「知行取り」は、一定の知行地(領地)を割り当てられ、そこから年貢を取り立てて俸禄にしました。

山内一豊(写真)は千代と結婚し、400石を与えられていましたが、この400石が知行地です。
これは、面積ではなく、400石の米が獲れる田(400反)を含む土地全体を指します。

知行取りは、その領地についての警察権・裁判権をもっていました。
また、領地から人夫を徴用でき、野菜や特産物に税をかけることが出来ました。

400石といっても、4公6民の場合は4割が年貢なので、160石(400俵)が実収入です。
ただし、領地を支配するには家来が必要となります。家来とその家族を養わないといけません。
また、米の収穫高は天候に左右され、また、知行所からの米の運搬費などの出費もありました。

これに対して「蔵米取り」は米の現物で支給されました。
蔵米取り400俵というと、その400俵を年3回に分けてもらっていました。

これで分かると思いますが、知行取り400石と蔵米取り400俵とでは、実収入が変わらないことが分かります。

ただ、豊作の場合は知行取の方が有利で、不作の場合は蔵米取りの方が有利でした。

実際には、これらに、扶持米という扶養手当みたいなものもつきました。

ただし、いずれにしても物価は上がり、米の価値は下がっていくので、これらの武士はだんだん貧乏になっていきます。

まとめると、「石」とは、米の容積であり、領地の広さを指すのです。

でも、まだあります。次回に続きます。
画像1 画像1

【校長日記】  福山憲市先生のセミナーをアップしました

画像1 画像1
7月5日の校長日記で紹介した、第3回教師力アップセミナー の様子をアップしました。

2時間の講座を、6回に分けて要点のみ紹介してあります。

 ここから http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.php?id=school55&frame=weblog

ここには、休日に参加料を払って学ぼうとする教師の姿があります。

参加したくても参加できなかった人に、少しでもお裾分けができればと思います。

【校長日記】 色丹島訪問記 −4−

画像1 画像1
画像2 画像2
画像3 画像3
北方四島交流訪問事業(教育関係者・青少年)の一員として、色丹島へ訪問した報告の4回目です。

8月2日の朝、いよいよ出航です。
この日の予定です。

8:30− 8:45 集合・出発
9:00− 9:30 乗船・出航 本町岸壁
10:30       通過点(明日説明します)
13:30−14:30 国後島(古釜布湾)にて入域手続
18:30       色丹島・船内泊(穴ま湾)
一日船の中です。

船は、北方四島交流等事業での専用船「えとぴりか」です。
1年前に就航したばかりの新しい船です。

1124トン 全長66.5m 速力15ノット  搭載人員96名  最新鋭の航海力。
エレベータ、ウォシュレット、ランドリー、浴室シャワー付き、部屋も食堂もきれい。
食堂のいすは鎖で固定されていました。(この意味は、次回にわかります)

出発式を終え、乗船し、出航しました。

この後、何が起こるかも知らないで・・・。  

続きます。

【校長日記】 江戸時代の「石(こく)」の意味は?−4−

昨日の続きです。

「1石」とは、容積の単位であり、一般には米の容積(180リットル=2.5俵)ということが分かりましたね。
また、米1石の重さが、150kgであることもわかりました。
1反が、1年間で食べる米の量が収穫できる広さであることもわかりました。
今日は、通貨単位です。

【 通貨単位 】

江戸時代には、何でも米を基準にしてきました。

通貨単位も同じです。
もともとは、1人が1年間に食べる1石の米代金を1両に決めました。
1両は、現在の価値で約10万円になります(17世紀の場合)。
すなわち、1石の米代金は10万円です。

現在の米の市場価格は1石(150kg)が約4〜8万円ぐらいでしょうか。米によって違いますが、17世紀よりは割安です。
1反でとれる米の生産者価格は約10万円ぐらいでしょうか。
場所にも、米の種類や出来にもよりますが…。

いかがですか?

驚くべき事に、生活する上でのほとんどの単位は、お米が基準なのです。
鎌倉時代以降の武士は土地がすべてといいますが、それは 土地=米=お金 ということなのです。

画像1 画像1
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
学校行事
4/6 入学式
江南市立布袋小学校
〒483-8148
江南市布袋下山町南167
TEL:0587-56-3200
FAX:0587-56-3421