最新更新日:2018/10/20
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明日は横田文化事業弁論大会です

KTXアリーナ(江南市スポーツセンター)見学会

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今日行われたKTXアリーナ(江南市スポーツセンター)見学会へ行ってきました。

上が外観です。
ガラスを多く使った、透明感のあるデザインです。

中央がトレーニングルームです。
明日からは写真撮影が禁止になるので、マシンの種類を見るには貴重な写真です。
隣にはフィットネススタジオがありました。

下がその他の室内です。
アリーナの周囲のランニングコースは地面が固いので、クッション性の高い靴がお薦めです。
更衣室、シャワールーム、トイレの写真もあります。

私は、トレーニングルームを利用したいと思います。

曼陀羅寺 宝物拝観へ行ってきました

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昨日から始まった曼陀羅寺 宝物拝観へ行ってきました。

曼陀羅寺にはたくさんの宝物があります。

かつては国宝と言われた時期もある重要文化財(国指定)の銅鐘や絹本著色浄土五祖像。
県指定有形文化財の浄土変相当麻曼荼羅図。
市指定文化財の織田信雄禁制、絹本著色三尊弥陀来迎図 など多数あります。

なかでも、平成22年に見つかった胎内仏は貴重です。
曼陀羅堂の曼陀羅図の両脇にある観音菩薩、勢至菩薩の中から見つかりました。
胎内仏としては全国最大レベル。
市指定から始まって、県・国へとステップアップしていけそうな逸材です。

しかし、今日見たかったのはこれではありません。
4月26日に中日新聞で紹介された曼陀羅寺の境内図です。

※ 撮影が禁止されていたため、上の写真は新聞の拡大です。

小田切春江の絵を多色刷りで刷ったものです。

白黒版は見たことがあるのですが、これは初めてでした。

現在8つある塔頭は、かつては13ありました。
濃尾大地震等で倒壊し、5つは廃寺となってしまいました。

被災後に造った屋根頂上の「箱棟(はこむね)」と呼ばれる部分の木材に、被害の様子が書き残されており、その箱棟も見ることができました。

「塔頭」は、禅宗に多い脇寺のことで、それぞれ独立した寺院です。

妙心寺は40あまり、大徳寺では20あまりの塔頭があります。

大徳寺で20あまりとなると、曼陀羅寺の13は、かなりの大きなお寺であることがわかります。

江南市縁の7人の戦国武将 −3− 前野将右衛門長康

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第3弾は前野将右衛門長康です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

前野長康も時代に翻弄された武将です。
ドラマも作れそうな波瀾万丈な人生を歩みました。

1528年に、木曽川の川並衆、前野家(現江南市前野町)に生まれました。(異説あり)
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。
後の秀吉の最古参の家来なのです。

1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。

この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。

なお、長康の子、前野景定は、あの細川忠興ガラシャとの間にできた娘、於蝶を正室として出石で迎えました。
ご存じのようにガラシャは明智光秀の娘です。

長康は聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。

その後、関白豊臣秀次付きとなります。

まさに、秀吉に最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。

そして、あの事件が起きます。

1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。
秀次は、秀吉の姉・智子の子です。
実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。
しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。

これが秀次事件です。
高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。

このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。
これこそ「とばっちり」。

正室・於蝶は、処刑寸前のところを助けられました。

母のガラシャは父の謀反に、娘の於蝶は義父の謀反の疑いに巻き込まれたのです。
歴史の因果・因縁を感じさせます。

秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。

おそらく冤罪でしょう。

これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれませんがわかっていません。

歴史的なバックボーンのある他の武将に比べて、農民から出世した孤高のトップ、秀吉の晩年が、いかに疑心暗鬼になっていたかをうかがい知ることができる事件です。

秀吉ほどの天才でも、弱点があったのですね。

あれほどの器の持ち主でも、晩年は哀れでした。

人間の限界なのでしょうか・・・。


もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。
180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。

私は? 
意見はありますが、ここではコメントを差し控えます。

いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦の一因となったのです。このことはまた後日紹介します。

『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記です。

写真上 吉田家の蔵から発見されました。
写真中は説明です。

長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。
「ドラマになりそうな人生」と書きましたが、最後があまりにも悲劇でした。

写真下の長康公は吉田家蔵の肖像ですが、かなり晩年のものと思われます。
不幸な晩年の悲哀を感じます・・・

明日は、生駒利豊を紹介します。

こども武将隊

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今日の江南藤まつりの様子です。

すいとぴあこども武将隊が、行列をし、勝どきをあげていました。

多くの人が訪れていました。

教師力アップセミナー

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昨日は、大口中学校で、今年度最初の教師力アップセミナーを開催しました。
各地から、多くの人が集まってくださいました。

講師は、学級経営の第一人者、赤坂 真二(上越教育大学教職大学院教授)先生です。

以前にも、布袋北小学校が研究指定校の頃にお世話になりました。
このセミナーでも2回目の登場です。

今回は、アドラー心理学の「勇気づけ」ではなく、学級経営と授業のお話でした。

その結論は至ってシンプル。
布袋小学校でもやっていること、やろうとしていることばかりです。

職員がチームを組んで、実践していきます。

本曽寺の馬頭観音

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以前に本曽寺の馬頭観音を一体紹介しましたが、実は本曽寺には二体ありました。
見落としていました。

これで、布袋校区内で17体目となります。

この数は、布袋小校区がいかに交通の要所だったのかを物語っています。

「神使像めぐり」というサイトがあります。
この中の、「神仏を載せる動物たち」には、獅子、象、狐、猪、馬、魚、龍、亀、孔雀、鵞鳥、牛(水牛)と神仏との関係がわかります。
 ここから 

江南市縁の7人の戦国武将 −2− 蜂須賀 家政

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江南市縁の7人の戦国武将を私見を交えて紹介するシリーズ第2弾は蜂須賀 家政です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連(れん)が出ます。
私は昨年も、教員チームの一員として参加しました。
鳴子踊りに比べて動きは単純。
しかし、徳島の本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。

でも、なぜ江南で阿波踊り?


ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。

蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。
1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。
昨日紹介した宮後城です。

小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村へと移り住んだのです。

安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。

家政の母は、宮後八幡社々家三輪若狭の妹まつ(後の大匠院)といわれています。
家政は幼児期を宮後で過ごし、三輪氏の檀那寺である曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。

1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷(現 布袋東保育園周辺)で、吉乃の仲立ちだと言われています。

布袋小学校の校区内で、戦国武将が力を蓄えていたと思うと感激です。

ここが歴史のロマンですね。

蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。
これが、後々に影響します。

家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。

その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。
そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。

この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの始まりの原型だったと言われています。
その原型とは、尾張の農民の踊りでした。
阿波踊りの原型は、尾張の農民の踊りだった(かもしれない)のです。

さて、1586年には父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。
朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。
しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。

この事件も、歴史のカギになります。

そして問題の関ヶ原。44歳の時です。

豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は嫌い
どちらが勝っても、家は守りたい。
そこで、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。
子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。

これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。

結果はご存じ、東軍の勝利。
蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。

1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。
大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。
夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。

豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。

子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。

再度、家政が阿波を守ります。何とタフなのでしょう。
波瀾万丈の人生です。

秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。
戦国の世で生き残るすべなのでしょう。

家政は、郷土にも大きな恩を感じています。

母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。
さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺本堂を再建しています。
※ 本堂は現在修理中なので、一昨年の写真を使っています。

歴史はロマンです。

明日は、前野将右衛門長康です。

子ども土曜塾 開塾式!

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今日から、平成30年度の子ども土曜塾が始まりました。

自分のために、休まず出席してくださいね。

観音寺の馬頭観音

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今日も、初めての紹介となります。(これで16体目となります。)

小折五叉路南東にある観音寺にありました。

「馬頭」は一番上に見ることができます。

小郷の馬頭観音と同じタイプです。

江南市縁の7人の戦国武将−1− 浅野長政

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曼陀羅寺で行われている江南藤まつりの中で、江南市縁の7人の戦国武将展 が開かれています。

その7人を、私見を交えて順に紹介していきます。

シリーズ第1弾は浅野長政です。
事実と違うこともあるかもしれません、その時はご教示ください。

筆頭五奉行・浅野長政は、天文13年(1544年)丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須質屋敷〕安井家で生まれました。父は、宮後城主・安井重継

宮後城は現在の江南市宮後町で、古知野中学校を東に向かったところです。
※ 写真の浅野長政像は東京大学史料編纂所蔵のものです。 

安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。

この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。
この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。

すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説もあり)なのです。
当然のように、秀吉にかわいがられます。

1573年、27歳の時には浅井・朝倉攻めに従軍し、秀吉が長浜城主になると、近江国内に120石を与えられます。

その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。
この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。

さらに4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。

京都奉行として京都の治安を維持したり、太閤検地を担当したりと要職をこなしていきます。
小牧・長久手の合戦の後には、徳川家康との和解に奔走し、外交面でも優れた手腕を見せています。

これは、のちにも影響をします。

1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。
さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。
活躍が認められ、甲斐国 22万5千石を与えられています。

1598年には、五奉行 筆頭になっています。

五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家 の5人。
いわゆる文治派で、これが関ヶ原の戦いの遠因になります。
※ このことは後日紹介します。


豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近します。
1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。

これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。
家康なら、十分あり得ることでしょう。

隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。
関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。

長政は、隠居料として常陸真壁に5万石を支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。

死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。
赤穂浪士の主君・浅野内匠頭はそのひ孫です。


一宮の浅野公園は、尾張浅野氏発祥の地です。
浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられており、庭園式公園として整備されました。
広さは約9200平方メートル、公園の周りは堀で囲まれ、木々がたくさん植えられています。
 http://www.petile.com/odekake/asano-c.html 

wikipediaによると

かつての名古屋鉄道一宮線浅野駅が最寄駅であった。元広島藩藩主浅野長勲が先祖である浅野長政旧邸跡を訪れる際、数回にわたり、押切町駅より最寄駅である浅野駅まで臨時列車が運行されたという。この際には、大正天皇のお召し列車用車両として製作された貴賓車SC1形・SC2形が使用された。


ディープな話です。

明日は、蜂須賀家政です。

今朝の曼陀羅寺

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今朝(4月28日)、朝6時10分頃の曼陀羅寺の様子です。

野田白藤が花びらが落ち始めました。

これで、最も遅咲きの藤も終わっていきます。

シャクナゲが見頃です。

6・7・8組図工でかぶとを作ったよ☆

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 こどもの日に向けて,図工でかぶと作りを行いました。新聞紙を使い,折り紙を折るようにかぶとを作っていきました。一つ一つ丁寧に指示があり,子どもたちはどの子も無事に完成しました。できたかぶとをさっそくかぶってみて,みんな喜んでいました。子どもたちにとって,こどもの日がよい日になるとよいと思います。

江南市縁(ゆかり)の七人の戦国武将

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曼陀羅寺では、江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。

江南市縁の7人の戦国武将とは、

1 浅野長政

2 蜂須賀家政

3 前野将右衛門長康

4 生駒利豊

5 生駒親正(ちかまさ)

6 織田信忠

7 織田信雄(のぶかつ)

これらの戦国武将について、明日から順に解説していきます。

江南市(特に布袋)の歴史に興味を持っていただけたら幸いです。

今日の給食は・・・特集は「天ぷら」

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今日の給食を紹介します。
天ぷらうどん、キスの天ぷら、ごま和え、白玉うどん、牛乳
センターからのメッセージは献立表をご覧ください。

今日の特集は天ぷらです。

今回は説明問題です。
Q 天ぷらを説明してください。 

シンプルな問題は、かえって説明が難しいものです。
答えはこちら!

今日の長放課は・・・

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今日の長放課(2時間目後の休み時間)の様子です。

今日は運動場を走り回っている子がたくさんいました。

この写真の中から、走っている先生を見つけてください!


『ソトイコ!』を配付しました

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学研からいただいている『ソトイコ!』を配付しました。

『ソトイコ!』は親子のための運動と遊びの情報サービスです。

Webサイトもご覧ください。多くの情報が得られます。
 ここから http://sotoiko.net/

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アイス先生、國松先生の授業

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6年生が外国語科の授業を受けています。

布袋小学校5・6年生は、年間70時間の外国語科の授業を行います。
担任と國松先生、または担任とアイス先生と國松先生で指導を行います。

今日も、一生懸命アイス先生の英語を聴き取ろうとする姿が見られました。

初めての発育測定

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1年生が初めての発育測定、視力測定を行っています。

5年後には、どこまで大きくなっているのかな?

江南藤まつり写生大会 結果

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今日の尾北ホームニュースに、藤まつり写生大会の結果が掲載されました。

布袋小学校からも、3人の児童が入賞しました。

宝蔵院の馬頭観音

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今回も、これまでに紹介していない馬頭観音です。(今回で15体目になります。)

学校の東側にある宝蔵院の墓地の中に、馬頭観音がありました。

風化のため馬の顔が見えにくくなっていますが、他の特徴から馬頭観音に間違いありません。

大切に祀られていました。
※ 写真は昨日撮影しました。
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学校行事
10/21 横田弁論大会
10/22 クラブ5
10/23 135秋の遠足 ALT
10/24 246秋の遠足
10/25 教育相談〜31日
10/26 ALT 三校合同パトロール 3年危険予知学習

学校通信「夢ひろば」

PTA

その他

ほけんだより

道徳教育の歩み

江南市立布袋小学校
〒483-8148
江南市布袋下山町南167
TEL:0587-56-3200
FAX:0587-56-3421