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【校長日記】東海地方にはなぜからくり人形が多いのか?

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昨日、新たにユネスコの無形文化遺産に登録される「山・鉾・屋台行事」を紹介しました。

今回登録される全国33の祭りのうち、1/3の11件が東海3県に集中しています。
しかも、これらの多くはからくり人形が載っているのです。
なぜ東海地区に山・鉾やからくり人形が多いのでしょうか?

犬山祭を例に説明します。
犬山祭は、針綱神社の祭礼です。
1635年(寛永12年)犬山城主・成瀬隼人公の奨励で始まったといわれますが、当時は車山(やま)のない、小規模なものでした。

18世紀中頃までにどの町にもできたといわれていますので、おそらく1730年に第七代尾張藩主となった徳川宗春の積極経済の影響が考えられます。
それもそのはず。成瀬家は、尾張藩の御附家老だからです。 

当時の江戸徳川の将軍は、第8代将軍・吉宗です。
かれは、享保の改革とよばれる緊縮財政政策を採り、多くのぜいたくを禁止しました。

これに対して(反抗して?)、宗春は開放政策を行い、祭なども奨励したのです。
そのため、働き場を失った多くのからくり人形師などが尾張周辺に集まってきたのです。さらに、全国から商店の支店や興行師も集まってきました。名古屋が芸所として発展したのもこれが理由です。

尾張周辺も、美濃には尾張藩領、飛騨は天領、三河は旗本領が多く、娯楽禁止の規制が緩やかで、広まっていきました。
さらにこの地域は、ヒノキや漆などの産地で経済的に余裕があり、山車などの材料も豊富です。

吉宗の享保の改革に見られるように、米の生産を増やすだけでは武士の禄が相対的に減る一方です。加えて質素倹約は、経済が停滞します。

楽市楽座を始めた信長に憧れて尾張に入った宗春は、その吉宗の改革に反旗を掲げて、積極財政政策を打ち出したのです。宗春は、吉宗以上に先見の明のある政治家だったと思います。

なかでも、からくり人形師などの職人の流入は、その後のものづくり愛知の基礎となりました。
からくり人形で培われた歯車やカム、シャフトなどの技術が機織り機に応用され、
豊田式自動織機と発展し、その後、トヨタ自動車が生まれたのです。

宗春さんはえらい!
しかし、吉宗は、その宗春に対して、厳しく対します。

なぜか?

また後日・・・・。

画像出典は http://endland.jugem.jp/?eid=61
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